1.スポーツにおける倫理とステークホルダーの信頼
―スポーツにおける相対性と卓越性…勝つのは相手と無関係に素晴らしいからか―
(1)スポーツコンプライアンスとは
スポーツコンプライアンスは法令や倫理等を遵守して、そのスポーツに対する社会的信頼に応えることであるとするのが、今日的な意味であるとすると、
スポーツの場における倫理がそれで社会の信頼を得ることができるのかが問題になろう。
(2)叫び声で恫喝は反倫理か
肉体の限界に挑戦するトライアスロンレースや過激な格闘技等にそれはよく議論されるが、
そうでなくても
相手の失敗を喜ぶ選手、
競技以外の叫び声で相手を恫喝する行為や
急所を徹底的に攻める行為
などが問題になってくる。
(3)スポーツの本質は勝敗か
スポーツはもともと勝ち負けを争う本質を持つがゆえに、そのスポーツに定められたルールを守りさえすれば、このような戦い方も卑怯者でないのであろうか。
(4)そのスポーツで許容された社会倫理以外の倫理の存在
スポーツは決まったルールの下で社会一般の倫理とは異なる 倫理の下でぶつかったり相手を力づくで攻撃したりするので、ルールで許容されてしまった外在的倫理は問題にはならないが、
そのうえでなおそのスポーツ内での一定の倫理に反するか問題になる場合がどうしても出てこよう。
この問題をクリアする理論として、「卓越性」理論がある。
2.スポーツにおける卓越性理論
(1)卓越性とは
勝利は、相手との関係を置いておいて、優れているから勝つのであって、相対性が勝利の決定的理由でないとの考えである。
そうすると相手が失敗しようがそのチームや選手が優秀であれば勝つものは勝つのである等の議論が成り立つことになろう。
(2)勝利の本質は「相対性」
この理論は魅力的な装いをもつかもしれないが、一種の騙しであろう。
スポーツの勝負は、究極的に「相対的」である。
ほんの少し自分が相手より上回っていたから勝つのである。
卓越していたからというのはいわば結果論であろう。
3.スポーツコンプライアンスの基本もやはり「リスク管理」と「職業倫理(スポーツ倫理)」
実際にどのような倫理がルールのほかに求められるかは
他の企業や行政機関におけると同じように
法のほかに守るべき倫理があってそれを破れば社会の信頼を失うといったコンプライアンスの議論はやはりここでも不可欠でなかろうか。
スポーツは、勝敗を人に見せて、成り立つ社会的な現象である。観客というステークホルダーがいて成り立っているのだ。
一人スポーツなる概念はコントラディクションである。それは、自己鍛錬に過ぎない。
もっとも、ステークホルダーは、現代社会ではメディアを含めた国家であったりもするほど広範囲である。
社会的な存在としてスポーツがなされる限りは、リスク管理と職業倫理(スポーツ倫理)が、コンプライアンス理論として妥当すると考える。
※コンプライアンスの本質はこのサイトの別稿参照