1.雪印2000年の事件
-不祥事はなぜ繰り返されるのか? 例えば「雪印」はなぜ1955年に続いて2回も不祥事を起こしたのか。-
(1)事件発生
2000年(平成12年)6月から7月にかけて、近畿地方を中心に、当時の雪印乳業の乳製品(主に低脂肪乳)による食中毒事件が発生し、認定者数13,420人の、戦後最大の集団食中毒事件となった。
(2)原因
・雪印乳業の大阪工場で生産された低脂肪乳が毒素に汚染されていた
但しその原料となる脱脂粉乳を生産していたのは北海道の大樹工場で、同時に大阪工場での原材料再利用の際における、不衛生な取り扱いもあった。
・雪印企業グループ各社の全生産工場の操業が全面的に停止、スーパーなど小売店から雪印企業グループ商品が全品撤去され、ブランドイメージも急激に低下した。
(3)記者会見の失敗
・記者会見で、大阪の工場長との連係ミスが出るし、ぶら下がり報道陣に社長は、「君ねぇ、そんな事言ったってねぇ、私は寝てないんだ」と発言し、記者が「こっちだって寝てないんですよ。そんなこと言ったら食中毒で苦しんでる人たちはどうなるんだ!」と反発した光景が映像を通じて広く配信された。
(4)不祥事が続く
2001年(平成13年)から2002年(平成14年)に雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく子会社不監督)がイメージ上の決定打となって、事業全体の再編成を余儀無くされる結果となった。
※この事件は、雪印乳業にとっては、実は下記の事件に続く二度日の大きな集団食中毒事件であった。
2.雪印1955年事件
(1)事件の発生
都内の雪印製の脱脂粉乳を使った学校給食から集団食中毒事件が発生し、被害者は1900人に及んだ。
学校給食での食中毒事件だっただけに雪印の衛生管理の不備は激しく非難された。
(2)対応
事件発生後、即座に製品の販売停止と回収を指示し、謝罪会見を行い、社長ら幹部が被害者や取引先、酪農家への謝罪し、再発防止策も速やかに発表した。
こうした真撃な取り組みは次第に世間の評価を受けるようになり、雪印には多くの激励の手紙や電話が寄せられた。
この年、なんと雪印は売り上げを伸ばし、日本一の乳業会社となるきっかけにさえなった。
(3)「全社員に告ぐ」
当時の社長が「信用を獲得するには長い年月を要し、これを失墜するのは一瞬である。そして信用は金銭で買うことはできない」と語った。長く雪印社員に配布されてきたが、2000年の食中毒事件時には、すでに打ち切られていた。
3.リーダーの資質
(1)トップのコンプライアンス意識が如実に表れる時
なるほど、リーダーの資質はこれほど重要なものである。
トップの社長の行為は殊に不祥事発生時にはすべての人が凝視している。
(2)コンプライアンス講師の目の前でコンプライアンスが足枷と言い放ったトップ
コンプライアンス講演等でも、トップが講演会場の最前列でしっかりと聞いているところとトップは所用ですと言うことで幹部や職員だけががダラーと聞いているところでは全く違う。
なかには、公的組織への天下りトップが私の目の前で
「コンプライアンス、コンプライアンスと言っているばかりでは売り上げが伸びない」
と言い放ったことがある。
西日本の政令指定都市でのことである。
それはないでしょう。
(3)コンプライアンス研修時に忙しいから参加しないといったが嘘だった
また、トップが挨拶に来て、自己の履歴を披露しかつ「私は忙しいので話は聞けない」といいながら、休憩時間に控室に戻ると居眠りをしていた。
四国のT市でのことである。
貴法人も多額の税金が投入されていることはみんな知っていますよ。
(4)コンプライアンスを真面目に考えないトップ
なるほど、中央から言われていやいややるからそうなるだろう。
トップの心底は、幹部みんな知っているのだ。
そんなことよりも、どうして、次から次への不祥事がなくならないのか.。
よくわかった、納得したと言うことになれば人はそれを特に意識せずに実行するようになるとは、古書にある通りである。
コンプライアンスのヘルプラインの活用やチェックリストの活用等は最初はぎくしゃくしても慣れればどうってことない。
組織に導入するときの具体的な方法はこのサイトの別稿参照。
(5)「コンプライアンスの当たり前」ができていないとどうなるか
コンプライアンスでは当たり前のことができていないと絶えず不祥事の芽があると考えるのがコモンセンスであろう。
進化するコンプライアンスもあれば、変わらないコンプライアンスもある。このサイトで繰り返しヒントを述べているし研修時や講演時に惜しみなく「解」を与えている。
自分の損得ばかりでコンプライアンスの本質が解っていない経営者には、なかなか「純粋な2つのコンプライアンス」が解らないであろう。